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覆面講師Tの『つれづれならぬ日々』②

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こんにちは。覆面講師Tです。

前回は「風立ちぬ」をテーマに
「You,古典にももっと興味を持っちゃいなよ!」みたいなことを書かせていただきました。
え?「そんなしゃべり方してないだろ、お前は某大手芸能事務所のJニーさんか」って?
まあまあ、そこは・・・(笑)
なんせ、Tという人間、筆が乗るとパラレルワールドに行ってしまうきらいがあるので、
そのあたりは大目に見てください。

で、古典と同じくらい、小生が塾生諸君にもっと興味を持ってもらいたいのが社会科、
とりわけ歴史科目なのです。
小生はふたば塾では理科以外のすべての科目を教えていますが、
この中で需要が高いのはやはり英語、数学です。

次いで国語で、こちらも受験対策としての記述指導の要望がありますが、
社会科に関しては滅多に指導のリクエストが来ません。

まあ、社会科なんてのは
『暗記科目だからお金を払ってまで教えてもらうほどでもない』って
意識が親御さんにも生徒自身にもあるのかもしれませんし、
受験での主要三教科の重要性や配点を考えても
英・数・国に受講バランスが偏ってしまうのは仕方のないことです。

しかし、社会科が苦手な人が
「暗記主体だから受験の直前に集中して覚えりゃいいや」
みたいな意識でできないまま放っておくと、
これ、結構大変なことになってしまうのです。
中間・期末のような定期テストならば出題範囲もあまり広くもないので
一夜漬けの勉強でも何とかなりますが、受験対策では勝手が違ってきます。

そもそも、範囲の指定なんかない
(というか、教科書に書いてあることすべてが出題範囲)わけですから、
一夜漬けどころか一週間漬け、一か月漬けだって効きゃあしない。
受験直前の冬休みに入って「さあやろう」と決意してみても、
膨大な学習項目の前に意欲も萎え、
勉強そのものが手につかない・・・
こんな事態はぜひとも避けたいところですよね。

そこで今回は、「社会科(特に歴史科目)を学ぶことの意義」
について考えてみたいと思います。
小生の経験則上実感していることですが、
理科と社会科は「できる生徒」と「できない生徒」との得点力の乖離が大きい科目です。
「できない生徒」に共通して言えることは、
『社会科=暗記科目』のステレオタイプにとらわれていて、
単調な暗記作業をこなすこと自体に苦痛を感じて学習意欲が湧かない人が多いようです。

ここで思ったことなんですが、
社会科を単なる『暗記科目』と考えちゃうことがそもそもの間違いなんじゃないですかね?
これは、学校での教え方や受験での出題の仕方にも大いに原因があることだとは思いますが、
今の社会科の教え方って、
中学生のワークなどを見ても「用語や数字を答えさせること」が偏重されている気がするんです。

たとえば、歴史の学習では、
小学校6年あたりで源頼朝が鎌倉幕府を開いた年を
「いい国作ろう(1192年)」と教えられますが
(まあ、最近では「いい国」ではなくて
「いい箱(1185年)」みたいな意見も増えてはいるようですけど・・・)、
1192年だろうが1185年だろうが、
はっきり言って、そんなの、人間が生きていく上ではどーでもいいことなんですよ。
1192年をきちんと言えたからって、銀行がお金を貸してくれるわけでもなければ、
意中の女性を口説き落とせるわけでもない。

かく言う小生も小学生の頃から鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の
征夷大将軍の名前をすべて暗記していましたが
(いまだにすべて言えますよ、と言っても、鎌倉将軍は3人だけなので簡単ですけどね)、
だからって、「徳川十五代将軍を全員答えよ」とテストで出題されたこともなければ、
東京での学生時代、それがきっかけで女子大生に
「まあ、Tさん、素晴らしいですわ(瞳キラーン!)。
これから赤プリ(90年代のトレンディードラマかよw)でフレンチでも食べながら
徳川幕府の施政について語り合いません?」
みたいな展開になったことは一度たりともありません。
あーあ、歴女ブームがもう少し早くやってきていたらなあ・・・

冗談はともかく、歴史に関して言えば、覚えるべきことは用語や年代ではなく、
『因果関係』なんだと思います。
もっと大雑把な言葉で言えば、『先人たちの成功や失敗の教訓』てところでしょうか。
「どういう選択を取ったらどういう結果に繋がるか」、
そのパターン分析を実生活に活かすことだと思います。
ちょっと抽象的な表現になってしまいましたので、一つ例を挙げてみましょう。

関ヶ原の戦い(1600年)では
徳川家康(東軍)が石田三成(西軍)を破って天下を獲りました。
結果だけ見れば、かかった時間は約6時間、
そのわずかな時間で徳川勢の圧勝に終わった戦いですが、
じゃあ、石田勢が圧倒的に弱かったのかと言えばそうでもない。

実際、
明治時代に日本陸軍大学校の教官としてドイツから迎えられていたメッケル少佐が
関ヶ原の東西両軍の布陣図を見せられ、
「どっちが勝ったと思いますか?」と問われた時、
少佐は迷いなく「西軍(石田勢)だ」と答えたという逸話があります。

西軍は鶴翼の陣(鶴が翼を広げたような形で
各隊を布陣させて相手を包み込むようにして攻め込む布陣)で
東軍を包囲していましたから、少佐がそう答えたのも当然でしょう。
数の上でも決戦開始当初は両軍拮抗していたと言われています。
このあたりは司馬遼太郎の小説(『坂の上の雲』など)に
詳しく書いてあるので興味がある人は一度読んでみてください。

じゃあ、総合的に見て有利だったはずの石田三成がなぜ負けたのか?
「小早川秀秋の寝返りがあったから」と答えるのがオーソドックスな解答でしょうが、
暗記主体の歴史の勉強ではそれで「はい、よくできました」でおしまいなんですよ。
でも、それじゃあ面白くもなんともない。歴史を学ぶ醍醐味というのはこの先にあるのです。

史実では、小早川秀秋は一応西軍に属しながらも、
石田勢の奮闘を松尾山の上から傍観していて、
「最終的に勝ちそうな方」に参戦しようと煮え切らない態度を取っていたと言われています。
要するに日和見主義なんです。

これは秀秋ひとりの判断ではなく、
家を存続させるために稲葉正成ら家臣が密かに徳川勢(黒田長政ら)と内通していて
寝返りの約束(これを歴史用語では「内応」と言います)をしていたという面もあるので、
秀秋ばかりを責められませんが、戦国武将としての決断力のなさ、リーダーシップのなさが、
老獪な家康に付け込まれる隙を広げてしまったのは間違いないでしょう。

まあ、その秀秋も内応の甲斐なく、家康からは戦功を評価されず、
東軍の武将からも裏切り者と白い眼で見られ続け、
数年後には悲劇的な最期
(小早川軍が討ち取った大谷吉継の霊に悩まされて、
最後は精神に変調をきたしてわずか21歳で死んじゃった、
という説があります)を迎えるのですから、
ここから得られる教訓はそれなりにあるわけです。

この秀秋と対照的にブレなかった存在が薩摩(今の鹿児島)の「鬼島津」こと島津義弘でしょう。
義弘は当初は家康率いる東軍に加勢するつもりで
伏見城(京都府)に籠る家康の重臣・鳥井元忠のもとへ救援に向かいましたが、
何らかの連絡行き違いがあって元忠から「そんなの聞いてねーよ」みたいなことを言われて
参戦を拒否されてしまいます。

東軍の城に入れてもらえず、「城内に入れろ」「入れない」で押し問答しているうちに城は西軍に囲まれ、
だからと言って、「では、薩摩に帰ったどー、通したもんせ」なんてことを
鹿児島弁で西軍に言っても通してもらえるわけでもなく、
仕方なく城を包囲する西軍(三成側)へと与した義弘でしたが、
小早川秀秋の裏切りによって戦局が逆転して西軍の他の武将たちが次々と東軍に寝返る中でも、
義弘は「おいどんは元々、東軍に入る予定でごわした」などとブレたりはしません。

あくまで西軍の将として戦を全うしようとするのです。
そこで義弘軍がとった策は「捨て奸(すてがまり)」という驚くべき退却戦法でした。
この捨て奸、あまりに凄惨でエグい戦法のため、関ヶ原を描いた映画やドラマは数々あれど、
いまだにきちんと映像化された作品は見たことありません。

簡単に言っちゃうと、「大将(義弘)を逃がすため、
家来たちが数人~数十人単位で、
追撃して来る敵の軍団に対し槍や鉄砲を構えて命を捨てて足止めする」戦法なのです。
最初の足止め隊が全滅したら、本隊の末尾からまた数人が逃げるのをやめ、
足止め要員として敵を迎え撃ちます。こうして本隊から足止め隊が次々と落伍して、
それぞれが死ぬまで敵と戦って足止めするのですから、
まさに「九死一生」どころの話じゃなく「十死ゼロ生」の作戦です。
家来たちは敵に撃たれようが、矢が刺さろうが、馬に蹴られようが、手足をもがれようが、
体力と意識が続く限り、追っかけて来る敵の兵にまぶりついて追撃の手を緩めさせ、
大将が逃げる時間的猶予を稼ぐわけです。

さらに、この義弘軍のすごいところは、
「逃げる」と言っても、本隊はただ後退するのではなく、
前方の敵陣を避けて横に逃げるのでもなく、
待ち構えている敵陣
(東軍最強と言われた福島正則の軍などが島津軍の前に布陣していました)のど真ん中を、
ひたすらに「敵中突破」したことでした。
冷静に考えてみれば、この「捨て奸」と「敵中突破」のコンビネーション、
味方の犠牲が膨らむばかりの無茶苦茶な戦法です。
実際、最初は1500騎いた島津軍でしたが、なんとか堺(大阪)へとたどり着き、
その港から船に乗って薩摩へと一息付いた頃には、兵は80騎ほどに減っていたそうです。
生存率数パーセント、まさに全滅寸前の逃避行だったわけです。

でもね、この島津義弘の「ただひたすら逃げる」という決断が後々の世に活きてくるのです。
東軍に寝返った小早川秀秋はその後、家康の不興を買って不幸な最期を遂げ、
関ヶ原のわずか2年後にお家も取り潰しになってしまいましたが、
敗軍の側にいたはずの義弘は、その勇猛果敢な姿勢と、
「東軍に刃を向けなかった」という点を家康に評価され、
他の西軍の武将たちが容赦なく処罰される中、義弘本人への処罰もないに等しく、
島津家の薩摩の領土もほぼ無傷に近い状態で安堵されたのでした。
この時、義弘の「戦わずに逃げる」という決断があったからこそ島津家は改易を免れ、
その後の子孫(島津斉彬ら)や家来(西郷隆盛、大久保利通ら)たちが
約270年後の明治維新の原動力となって徳川家を倒すのですから、
歴史とは皮肉なものです。

結果だけ覚えるような暗記主体の学習では、
「小早川秀秋=勝者側、島津義弘=敗者側」という『点』しか理解できません。
けれども、点と点を線で結べば、秀秋と義弘、
どっちが「真の勝者」であったのかがおぼろげながらも掴めてきますよね?
さらには、関ヶ原という『点』が約270年後の別の『点』へと繋がっていく、
これが歴史の面白いところです。

こういった『点』は歴史の流れの中で無数に存在しますが、
むしろ大切なのは、この点と点とを結ぶ『線』を理解することです。

用語ばかり暗記しようとする勉強法では、
関ヶ原の戦いという『点』と明治維新という『点』とを結ぶ『線』はいつまでたっても浮かび上がっては来ないでしょう。
点から点へと線がどのように繋がっていくのか、
その経過(因果関係)を理解し、
自分の生き方に反映させることこそが歴史を学ぶ意義だと小生は考えます。

塾生の諸君もこの後、数年後、社会に出れば、
人生の岐路に立つような大きな選択をしなければならない場面に出くわすことがあろうかと思います。
その時、小早川秀秋になるのか、島津義弘になるのか、それは諸君の歴史への向き合い方次第です。
歴史を軽んじてはいけません。
今まで興味のなかった人は今からでも遅くはありません。
教科書に書いていないようなところからでもかまいません、歴史に興味を持ちましょう。

 

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