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覆面講師Tの『つれづれならぬ日々』①

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覆面講師Tの『つれづれならぬ日々』①

こんにちは。覆面講師のTです。先日、塾長先生からドSチックに
「T先生、何か書いてみたらいかが? どうせ暇なんでしょ?(キリッ!)」
みたいなありがたーいお言葉(=業務命令?)を戴きましたので、
気の向いた時に、何か書いていこうと思います。
兼好法師のごとく「つれづれなるままに」 とはいきませんが・・・・。

さて、第一回目に何を書くかって話なんですが、
やっぱ国語をメインに教えている手前、
それに関係することをかみ砕いて書いていこうかなと。
でも、文芸誌じゃないですから、
あまりマニアックなことばっか書いてもつまらない。
さすがにそこまでの造詣もない。ということで、

悩むこと数分、
「そーだ、先月、DVDで見た映画に古典に関係する話が出てたっけ。
あれなら付け焼刃の知識でも誤魔化せるかも・・・」
って安易な考えで畏れ多くも触れてしまいます、
あの「風立ちぬ」に。「風立ちぬ」と言っても、
我が敬愛する大瀧詠一師匠の作曲で聖子ちゃんが歌った
「風立ちーぬー♪ いーまーはー秋♪」ではありません。
そう、映画界の巨匠、宮崎駿監督による「風立ちぬ」です。

この映画、一応、堀辰雄の名作「風立ちぬ」をモチーフにして作られてはいるようですが、
換骨奪胎、中身は全くの別物と見た方がいいと思います。
だって、堀作品にゼロ戦なんか出て来ませんもんねえ。
公開前には宮崎作品を「見ず嫌い」の人たちによる
「あの宮崎監督がゼロ戦を礼賛?」みたいな頓珍漢な論評もあったりしたわけですが、
実際鑑賞してみると、これがなかなか良く出来てる。
ゼロ戦という太平洋戦争の象徴的な存在を逆手にとって平和メッセージを込めるあたり、
流石としか言いようがありません。
まあ、あまり詳しく書くとネタバレになりますので書きませんが、

同時期に公開され比較された安倍ちゃん大好き某放言作家の原作によるゼロ戦映画とも、
1970年代に流行った「みんな美しく死んでいった」みたいな
鶴田浩二やら丹波哲郎やらが出てくる東映の戦争映画とも、まったくテイストが違うのであります。
(ちなみに、私、鶴田御大と丹波御大は
高倉健や三船敏郎に次ぐ昭和の日本映画の重鎮として尊敬申し上げております)

で、本題に入りますが、この作品、二時間ちょっとの尺なのに、
リモコンの停止ボタンを押すことの繰り返しで、
最後まで見終えるのに丸一日以上かかってしまったのです。
その原因となったのが、
開始後しばらくして出てくる二郎と菜穂子が出会う東海道線の車中でのシーン。
ここで堀作品でもお馴染みのあのセリフが出てくるんです。

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.

俳優も声優もド素人のはずの庵野秀明(「エヴァ」シリーズや「シン・ゴジラ」の映画監督ですね)が、
上手いんだか下手なんだかよく分からない吹き替えで主人公・二郎に扮してフランス語でしゃべる言葉です。
フランスの詩人、ポール・ヴァレリーによる詩ですが、
堀の原作ではその横に堀自身による日本語訳(文語ですが)が付いてます。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」

これ、一応日本語訳なんですけどね、平成の時代(その平成もあとわずか・・・)を生きる我々にとっては、
それでも「何のことじゃ?」ってことになるのは必至です。

この堀作品が世に出たのが昭和十三年、小説なんて教養の高いインテリさんたちが読むものだった時代でしょうから、
文語訳を読んだだけで当時の読者は「ああなるほど」と理解できたのかもしれませんが、
さすがに現代人には文語はもはや外国語、昭和初期の作品でさえ古典なのです。
まあね、ほとんどの人はそんなディテールなんか気にせずに映画の先を見るのでしょうけど、
ここが職業病とでも言うべきか、古文を中高生に教えていることもあって、どうしても引っかかってしまうんですよ、
最後の「やも」が。これが私の悪い癖・・・。
(決して、テレ朝「相棒」での水谷豊演じる杉下右京の口癖を真似てるわけじゃないですからね、念のため)

ということで、DVDの再生はその時点で中断され、早速、古語辞典の出番と相成りました。
堀による訳の第一文「風立ちぬ。」は問題ないでしょう。
「ぬ」は完了の助動詞で「風が吹き始めた。の意です。
で、問題なのが第二文「いざ、生きめやも。」なのです。
「いざ」は「さあ、」くらいの意味でいいとして、
「生きめやも。」って何なん?
「生き」が動詞、「め」は意思の助動詞「む」の已然形であるくらいは辞書なしでも分かります。
で、古語辞典で「やも」を引くと「詠嘆を含む反語の意を表す」と書いているではあーりませんか。
反語だから口語訳の鉄則に従い「・・・しようか。いや、そんなことはない。」と訳さなければならない。
てことは、「さあ、生きていこう」の意ではなく
「さあ、生きていこうか。
いや、(やっぱり)生きるのやーめた(諦)」みたいな意味になるのでしょうか?

そんなことを考え始めると、
「この映画(さらには堀の原作)のテーマって何なの?」って話になってしまったわけです。
どんな境遇でも生きることの大切さ、生への執着を描いた作品なのかと思ってたのに、
「生きるのやーめた」じゃ、わけが分からなくなってしまいます。

昔、「地下鉄の車両ってどこから入るんでしょうねえ?
考えると夜も眠れなくなってしまいます」てな漫才がありましたが、
それに倣い私も「『生きめやも』ってどういう意味なんでしょうねえ?」てな感じで一晩眠れなくなってしまったのです。
仕方ないから、一晩かけていろいろ調べました。ネットの時代って便利ですね。

この解釈にはいろんな説があり、昔から文芸評論家のお歴々も侃侃諤諤していたようですが、
「堀辰雄によるフランス語の誤訳」ではないかというのが大勢。
もともとのヴァレリーの原文を素直に直訳すれば、
単純に「いざ、生きむ」(=「さあ、生きていこう」)で良かったのではないか、ってことです。

じゃあ、堀辰雄って、なんでそんなイージーな誤訳をしちゃったの?
東大文学部出てるくせに馬鹿なの?ってことにもなりかねないわけですが、
実際、著名な文芸評論家でも、
その「堀辰雄による誤訳説(堀おバカ説?)」で片付けてしまっている人もいるくらいです。
しかし、果たしてそうなんでしょうかね?
(念を押しておきますが、この「かね?」は反語のつもりです)

まず、この小説が書かれた当時の時代背景を考えてみましょう。
結核といえば当時は治癒不能、死に直結する病でした。
いくら空気の澄んだ高原のサナトリウムに転院してみたとことで、
それは治癒が目的ではなく、
いわば「人生の残りの時間を有意義に過ごすため」という側面の方が強かったと思います。

ましてや、当時の社会的な背景は、一日一日と戦争の足音が迫って来る時代。
主人公の菜穂子にとっては、自分の体への不安もさることながら、
周囲の状況も今みたいに安穏と日々を過ごせるほど明るくはなかったと思います。
病気と闘おうにも、そのきっかけとなるような希望さえ見出しにくい時代。
そんな身も心も閉塞してしまうような環境の中、
風が吹き始めた程度で「さあ、生きよう」なんて簡単に思ってしまうような人がいたら、
それこそお目出度い人ですよね。

ましてや、「風」と言えば、普通は「秋風」のことで、木々や葉は枯れ始め、
冬に向かって物事が徐々に退潮していくイメージ。
むしろ、秋風の前に、時代に翻弄される運命のはかなさを感じる方が自然だったようにさえ推測できます。
そのような状況下で人間が取るべき選択肢って限られてるんですよ。

要は、「諦めること」「流れに身を任せること」なのでしょう。
川端康成の著書で有名な「末期の目」(「まつごのめ」)って言葉がありますが、
人間、死を覚悟してすべてのことを「諦めた」瞬間、いろいろな付き物が落ちて、
世の中のことが「澄んだ目」で正確に見れるようになるらしいです。
その末期の目と似たような思想を、堀は「生きめやも。」の「やも」に籠めたのかもしれません。
すべては「生きるのやーめた」と生への執着を捨てるところから始まる。
それこそが人間の究極的な生き方なのだと。

そう考えると、堀の原作も宮崎版「風立ちぬ」も味わいが変わってくるのです。
はじめのうちは、あの可憐で清純な菜穂子が結局死んでしまうことが悲しくて悲しくて、
ただただ切なくなっていましたが、何度もDVD鑑賞を重ねるうちに、
悲恋の物語は生死を超越した純愛物語へと変貌を遂げるのです。
言ってみれば「時空を超えた愛」といった感じでしょうか。

宮崎監督も、堀の訳の意図を十分に理解した上で菜穂子の運命を決めたのではないかと。
「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」・・・。
宮崎監督、評価の高い作品は他にもたくさんありますが、この「風立ちぬ」は何度も見れば見るほど、
ジワアとした味が沁み出してくる。
これほど「コクのある」作品は他にはないような気がするのです。
現時点ではこの「風立ちぬ」が私の中での日本映画の最高傑作になりました。

まあ、こんなこと、映画館で娯楽気分で見てたら思わなかったでしょうし、
家でDVDを見ていても普通の人はスルーすることなのでしょうけど、
この、たった二文字の「やも」に引っかかったおかげで、鑑賞には一日以上かかってしまいました。

でも、その時間は決して無駄ではなかったと思っています。
それどころか、私の人生、ちょっとだけ得したような気分にもなれました。
それもこれも、学生時代、古文の学習を多少なりとも真面目にやってきたおかげなのでしょうか?

職業柄、今の中高生の古典の問題を見ること多々ありますが、
古文といっても原文のそばに現代語訳が付いており、彼らは辞書を引いて自分で調べる機会は皆無、
塾など受験産業として教える側にも
「英語と違って古文なんて日常生活でほとんど役に立たないから適当にやってればいい」みたいな
古典を軽視するような風潮さえ感じることがあります。
でもね、古文って決して現代の日本人と無縁のものじゃないんです。
日頃何気なく使っている言葉でも、
いにしえの由来を知れば日頃の生活がより豊かになることだってあるんです。

古文は英語のように即戦力として使える知識は少ないかもしれないけど、
「古文を勉強して良かった」と思える瞬間は、
ある日突然、思いがけないところでやって来ます。
女子にもてたいと思ってる男子の生徒諸君、今はまだピンとこないかもしれませんが、
君たちがもうちょっと成熟した大人になった時、
気になる女性の前でサラッと古典の有名なフレーズを口ずさんでごらんなさい。
相手がある程度の教養のある女性なら、その場の雰囲気はぐっとロマンティックになるでしょう。

「風立ちぬ」の二郎のように、詩の一節をフランス語と文語で言えるようになれれば、
菜穂子みたいな清純なお嬢さんとの出会いがあるかもしれません。
(思い返せば、賛否両論あった庵野氏の吹き替え、
あのフランス語のシーンだけは棒読みの下手さ加減?がうまく作用して、
いかにも「昭和初期のインテリ学生」みたいな雰囲気になっちゃってるんです。
宮崎監督、そこまで狙ったのかなあ?)

さあ、ふたば塾で学習する中高生のみなさん、身近なところからで構いません、
もっと古典に興味を持ちましょう。

「風立ちぬ、いざ学ばむ」

おしまい

次回のコラムもお楽しみに。

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